こんばんは。BJです。
私の短歌
忘れ物 忘れた夏に イルカごと 溺れた彼氏が 勃起している
という短歌について書きます。
それはともかく、過去というのはカノープスより遠い銀河です。
そこへ辿り着く手段があったとしても、
それを生み出すのは文明、科学の力ではないでしょう。
タイムマシーンというものが出来て、西暦1000年前に行けたとしても、
私という現在はずっと現在のまま、周囲は過去なんでしょうけれど、
それでは過去へ行ったということになりません。
それでも私たちは何かを思い出したりするのですから、確かに過去というものはあったようで、
過去はないのではなく、ただ遠いということになります。
そういう意味では、私たちはカノープスより遠くからこちらへと、常に移動し続けているようなものです。
思い出すというのはその旅路を地図に辿ることと同じです。
とはいえ、思い出すということ、それにも少なくとも二種類はあるように思います。
つまり、自ら過去を描き出す、思い出す、と、ふとしたきっかけである瞬間がよみがえる、思い出すです。
先の思い出すは、マスターベーションです。
自分の、自分による、自分のための1人称物語を読んでいる状況です。
自分という人称の示される範囲内にある飛び石を踏んでいます。
remember の主語がIである状況です。re-と参照される辞典が自分であるわけです。
歩いたときに気付いて印を付けた場所を辿る作業です。
後の思い出すは、痴漢です。
歩いたときに気付きながらも、しかし印を付けなかった場所を、
誰かか何かに教えられる思い出す、です。
自分で自分を痴漢するためには、困難な病気が必要です。
その病名を私は知りませんが、症候としては、自分が自分であることを忘れるというものです。
その病気に罹った場合は、前者の思い出すはもう有得ないので、
つまるところ前者でありながら後者であることは不可能です。
動物たち、鏡に映る自分を敵と認識する動物たちは、みんなこの病気の患者といえます。
しかし、後者という痴漢体験もまた、すぐさま前者へと移り変わります。
ラジオかコンビニで流れていた曲で唐突に郷愁の雨に打たれても、
帰宅しyoutubeにその曲を求めてしまうや否や、すぐに郷愁のための郷愁、
自動車教習所の再履修に成り果てます。成り果てます。
上記の短歌は、忘れ物を忘れた、という間抜けの報告から始まります。
何を忘れたか忘れた、という状況は、その忘れ物が大して重要でなかったことを示しています。
忘れ物が車の鍵やプレゼント、バイアグラ等であれば、それが必要なタイミングで思い出されることは
確約されています。追憶の時限爆弾で爆死すること請け合いです。
したがって、ここで忘れられたものは忘れられても良かったものだとわかります。
必要という言葉はいつも曖昧なニュアンスで、みそラーメンのような後味ですが、
この忘れ物は明石焼きで、みそラーメンとはきっぱり違います。
そしてそれは夏です。
最近ようやく春めいてまいりましたが、季節はいつも不意にいます。
殊更夏、確かに手応えという点では冬と双璧ですが、夏の夏らしい夏っぽさといえばもう夏です。
ここから次回。
2012年3月27日火曜日
2012年3月17日土曜日
おっぱい褒めろよ~って話です
こんにちはー、エノキダです。
ひと雨ごとに寒さもゆるみ、春の気配がちらほらと、と言う割りに寒いな! といったところでしょうか。
まだまだ風邪をひきやすい時期です。
どうぞお気をつけて。
さて、3月号掲載分ぐらいから、エッセイを書くのが楽しくなりました。
〆切を設けて、コンスタントに文章を書き続けてみることに慣れたのでしょう。
肩の力が抜けたといいますか、そもそも誰かへの嫌味や当てつけを燃料にせずとも書けるようになったこともあるのでしょうが、自分で読み直して「あちゃー、やなやつー」と思うポイントが減りました。
そんな3月号を読んでくれた友人(女)から今朝、
「わたし、けいちゃんのおっぱいやわらかくて大好きじゃー」
というパーフェクトな感想?をもらって、 わたしは「『ほをずり』つくっててよかったーー」と思いました。
別に下ネタとか何でもなく、おっぱいって誰かに求められてなんぼだよね、とわたしは常々思っています。
だって、こんな脂肪の塊が上半身についていたところで自分の役には立たないじゃないですか。あ、役に立たないんですよ男性諸君。
第一にきっと赤ちゃんのためでしょ。
それから第二に、まあ、そういう営みに役立つというか、まあいいじゃないですか。 そりゃやわらかいし触っておもしろいもんだと思いますよ。
あはは、だけどやっぱり自分ひとりのための部位ではないでしょう?
おっぱいって、ただ持ってるだけじゃ役目を果たせないし、ひとりぼっちでいたんじゃ、おっぱいの価値って見出せないな、ということをよく思います。
でも、見出したいでしょ、自分の価値とかおっぱいの価値とか。
わたしのからだにおっぱいがついている限り、わたしの価値をひとりで説明し切ることはできないね、する気もないけどね、ふふふ、そんな3月号、ぜひ読んでください。
あと、他のメンバーもおもしろいこといろいろ書いてました3月号。 みんなの価値も見出してください。
ひと雨ごとに寒さもゆるみ、春の気配がちらほらと、と言う割りに寒いな! といったところでしょうか。
まだまだ風邪をひきやすい時期です。
どうぞお気をつけて。
さて、3月号掲載分ぐらいから、エッセイを書くのが楽しくなりました。
〆切を設けて、コンスタントに文章を書き続けてみることに慣れたのでしょう。
肩の力が抜けたといいますか、そもそも誰かへの嫌味や当てつけを燃料にせずとも書けるようになったこともあるのでしょうが、自分で読み直して「あちゃー、やなやつー」と思うポイントが減りました。
そんな3月号を読んでくれた友人(女)から今朝、
「わたし、けいちゃんのおっぱいやわらかくて大好きじゃー」
というパーフェクトな感想?をもらって、 わたしは「『ほをずり』つくっててよかったーー」と思いました。
別に下ネタとか何でもなく、おっぱいって誰かに求められてなんぼだよね、とわたしは常々思っています。
だって、こんな脂肪の塊が上半身についていたところで自分の役には立たないじゃないですか。あ、役に立たないんですよ男性諸君。
第一にきっと赤ちゃんのためでしょ。
それから第二に、まあ、そういう営みに役立つというか、まあいいじゃないですか。 そりゃやわらかいし触っておもしろいもんだと思いますよ。
あはは、だけどやっぱり自分ひとりのための部位ではないでしょう?
おっぱいって、ただ持ってるだけじゃ役目を果たせないし、ひとりぼっちでいたんじゃ、おっぱいの価値って見出せないな、ということをよく思います。
でも、見出したいでしょ、自分の価値とかおっぱいの価値とか。
わたしのからだにおっぱいがついている限り、わたしの価値をひとりで説明し切ることはできないね、する気もないけどね、ふふふ、そんな3月号、ぜひ読んでください。
あと、他のメンバーもおもしろいこといろいろ書いてました3月号。 みんなの価値も見出してください。
2012年3月8日木曜日
3月号!!
お久しぶりです。
ついに3月号が刷り上がってきました。
僕が書いた小説は今回で完結です。あとがきは、なぜかフーコーの話を延々しております。趣味です。
ぜひお読みくださいませませ!
目次
エッセイ 絵はがき/悪寒と湿布/かわいいあの娘の記録 ・・・ 榎田恵子
詩作 去る君へ/いたむ/熱烈な恋を詠う/図書室 ・・・ 松山行
小説 剥がれ落ち日記 ・・・ 也田貴彦
小説 顔(2) ・・・ 網谷壮介
短歌 墓参りの勃起短歌 ・・・ BJ番匠
表紙・デザイン 神谷悠貴
ほをずりをご購入していただける方は
howowzuri@gmail.com
にご連絡下さい。
200円+送料250円を お振込みいただくことになります。
2012年3月6日火曜日
勃起短歌について
こんばんは。BJです。
勃起短歌について書きます。
以前後輩が
初恋は 振り子細工の 心やで 好き好き大好き 勃起している
という勃起短歌を読んでくれました。それについて、先輩が、ここは
初恋は 振り子細工の 心やで 好き好き大好き 勃起していく
とした方がいいというアドバイスをされていました。
確かに先輩のおっしゃる通りで、好きという気持ちベクトルが勃起ベクトルに還元されていく様子として、
勃起している、というより勃起していく、の方が適切な表現と言えます。
とはいえ、勃起しているのか、勃起していくのか、「る」か「く」か、
これは勃起短歌を考える上で、非常に重要な問題であると言えます。
私はこれマデの人生において、100首以上の勃起短歌を読んできました。
恥の多い人生を送ってきました。
親に合わせる顔もなし。国家の恩に報いる由もなし。何が勃起短歌だ。
そもそも、私は特に絶倫ではないのです。。。
そんなことはどうでもいいとして、私の勃起短歌は、すべて「勃起している」を五句目として成立させています。
100首読んだとはいえ、私の分類では、方法としてはおよそ三種類ぐらいでしか読んでいません。
そして私の方法によると、「勃起していく」ではなく、「勃起している」となってしまうのです。
「勃起していく」場合、それはいわば物語のグランドフィナーレとしての勃起が想定されねばなりません。
「いく」というのはベクトルですから、ベクトルで終わるということは、
それマデの過程もベクトルであることを強制するのです。
ツマリ、5、7、5、7というリズム制度は、勃起のための滑走路としての役割を果たすわけです。
「勃起」というサビを奏でるためのプレリュードとしての5、7、5、7となります。
話を具体的に戻しますと、
初恋は 振り子細工の 心やで 好き好き大好き 勃起していく
という短歌において、
初恋は 振り子細工の 心やで 好き好き大好き
という表現は、初恋をまず比喩で表現=説明し、それから気持ちを連呼=絶叫するという構成を取っております。
いわば理性から熱情へ、脳から心臓へとポエジーが移行していきます。
そして締めの
勃起していく によって、ポエジーがついに本能へ宿るわけです。
山へ降った雨が川となり、いずれ大海へ出る循環を示すようで、宇宙船地球号も真っ青ですね。
この方法をさらに敷衍して使えば、
姿見て 胸熱くなり 勃起して 不意に走って 大地爆裂
となります。もちろん、後輩の作った歌の方が優れていますが、方法としてはこれと同じです。
「勃起していく」という用語を使うことは、矢印としての勃起を採用することと同義なのです。
それが優れているかどうかはさておき、私が勃起短歌で夢見ることは、そういうことではありません。
「勃起している」という結句を採用する場合、それは常に、「不意に」という副詞を背に抱えています。
5、7、5、7という構築にいる他人。いわば磯野家におけるノリスケとしての勃起。
物語のフィナーレではなく、「風と共に去りぬ」と同時期の明治維新のような、
もっといえば、東日本大震災が起こらなかった世界では、3月12日に石巻で人殺ししていたはずの人間のような勃起。
物語は浄化します。雑念と怠惰によって染められた灰色の日常すらも、物語は浄化します。
私は願わくば、「勃起している」という言葉が、それを打ち消してくれることを期待しています。
「勃起している」という言葉には、きっぱりとビフォアとアフターが込められています。
勃起する前と、勃起した後というシチュエーションが含まれています。
「勃起している」という言葉自体が一つの物語であって、だからこそ、5、7、5、7という制度が生み出す物語と
別の物語を奏でられると思っています。
「勃起していく」であれば、そこにはアフターこそあれ、過去は存在しません。まるでキリストです。
とはいえ、勃起なんてたかが勃起です。大いなる破壊でも邪悪な悪意でもなく、爽快な朝には付き物のの
おちゃめなハプニングです。
私が自分の作った勃起短歌で気に入っているものは
忘れ物 忘れた夏に イルカごと 溺れた彼氏が 勃起している
というものです。この解説を今度します。
さようなら。
勃起短歌について書きます。
以前後輩が
初恋は 振り子細工の 心やで 好き好き大好き 勃起している
という勃起短歌を読んでくれました。それについて、先輩が、ここは
初恋は 振り子細工の 心やで 好き好き大好き 勃起していく
とした方がいいというアドバイスをされていました。
確かに先輩のおっしゃる通りで、好きという気持ちベクトルが勃起ベクトルに還元されていく様子として、
勃起している、というより勃起していく、の方が適切な表現と言えます。
とはいえ、勃起しているのか、勃起していくのか、「る」か「く」か、
これは勃起短歌を考える上で、非常に重要な問題であると言えます。
私はこれマデの人生において、100首以上の勃起短歌を読んできました。
恥の多い人生を送ってきました。
親に合わせる顔もなし。国家の恩に報いる由もなし。何が勃起短歌だ。
そもそも、私は特に絶倫ではないのです。。。
そんなことはどうでもいいとして、私の勃起短歌は、すべて「勃起している」を五句目として成立させています。
100首読んだとはいえ、私の分類では、方法としてはおよそ三種類ぐらいでしか読んでいません。
そして私の方法によると、「勃起していく」ではなく、「勃起している」となってしまうのです。
「勃起していく」場合、それはいわば物語のグランドフィナーレとしての勃起が想定されねばなりません。
「いく」というのはベクトルですから、ベクトルで終わるということは、
それマデの過程もベクトルであることを強制するのです。
ツマリ、5、7、5、7というリズム制度は、勃起のための滑走路としての役割を果たすわけです。
「勃起」というサビを奏でるためのプレリュードとしての5、7、5、7となります。
話を具体的に戻しますと、
初恋は 振り子細工の 心やで 好き好き大好き 勃起していく
という短歌において、
初恋は 振り子細工の 心やで 好き好き大好き
という表現は、初恋をまず比喩で表現=説明し、それから気持ちを連呼=絶叫するという構成を取っております。
いわば理性から熱情へ、脳から心臓へとポエジーが移行していきます。
そして締めの
勃起していく によって、ポエジーがついに本能へ宿るわけです。
山へ降った雨が川となり、いずれ大海へ出る循環を示すようで、宇宙船地球号も真っ青ですね。
この方法をさらに敷衍して使えば、
姿見て 胸熱くなり 勃起して 不意に走って 大地爆裂
となります。もちろん、後輩の作った歌の方が優れていますが、方法としてはこれと同じです。
「勃起していく」という用語を使うことは、矢印としての勃起を採用することと同義なのです。
それが優れているかどうかはさておき、私が勃起短歌で夢見ることは、そういうことではありません。
「勃起している」という結句を採用する場合、それは常に、「不意に」という副詞を背に抱えています。
5、7、5、7という構築にいる他人。いわば磯野家におけるノリスケとしての勃起。
物語のフィナーレではなく、「風と共に去りぬ」と同時期の明治維新のような、
もっといえば、東日本大震災が起こらなかった世界では、3月12日に石巻で人殺ししていたはずの人間のような勃起。
物語は浄化します。雑念と怠惰によって染められた灰色の日常すらも、物語は浄化します。
私は願わくば、「勃起している」という言葉が、それを打ち消してくれることを期待しています。
「勃起している」という言葉には、きっぱりとビフォアとアフターが込められています。
勃起する前と、勃起した後というシチュエーションが含まれています。
「勃起している」という言葉自体が一つの物語であって、だからこそ、5、7、5、7という制度が生み出す物語と
別の物語を奏でられると思っています。
「勃起していく」であれば、そこにはアフターこそあれ、過去は存在しません。まるでキリストです。
とはいえ、勃起なんてたかが勃起です。大いなる破壊でも邪悪な悪意でもなく、爽快な朝には付き物のの
おちゃめなハプニングです。
私が自分の作った勃起短歌で気に入っているものは
忘れ物 忘れた夏に イルカごと 溺れた彼氏が 勃起している
というものです。この解説を今度します。
さようなら。
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