こんばんは。BJです。
勃起短歌について書きます。
以前後輩が
初恋は 振り子細工の 心やで 好き好き大好き 勃起している
という勃起短歌を読んでくれました。それについて、先輩が、ここは
初恋は 振り子細工の 心やで 好き好き大好き 勃起していく
とした方がいいというアドバイスをされていました。
確かに先輩のおっしゃる通りで、好きという気持ちベクトルが勃起ベクトルに還元されていく様子として、
勃起している、というより勃起していく、の方が適切な表現と言えます。
とはいえ、勃起しているのか、勃起していくのか、「る」か「く」か、
これは勃起短歌を考える上で、非常に重要な問題であると言えます。
私はこれマデの人生において、100首以上の勃起短歌を読んできました。
恥の多い人生を送ってきました。
親に合わせる顔もなし。国家の恩に報いる由もなし。何が勃起短歌だ。
そもそも、私は特に絶倫ではないのです。。。
そんなことはどうでもいいとして、私の勃起短歌は、すべて「勃起している」を五句目として成立させています。
100首読んだとはいえ、私の分類では、方法としてはおよそ三種類ぐらいでしか読んでいません。
そして私の方法によると、「勃起していく」ではなく、「勃起している」となってしまうのです。
「勃起していく」場合、それはいわば物語のグランドフィナーレとしての勃起が想定されねばなりません。
「いく」というのはベクトルですから、ベクトルで終わるということは、
それマデの過程もベクトルであることを強制するのです。
ツマリ、5、7、5、7というリズム制度は、勃起のための滑走路としての役割を果たすわけです。
「勃起」というサビを奏でるためのプレリュードとしての5、7、5、7となります。
話を具体的に戻しますと、
初恋は 振り子細工の 心やで 好き好き大好き 勃起していく
という短歌において、
初恋は 振り子細工の 心やで 好き好き大好き
という表現は、初恋をまず比喩で表現=説明し、それから気持ちを連呼=絶叫するという構成を取っております。
いわば理性から熱情へ、脳から心臓へとポエジーが移行していきます。
そして締めの
勃起していく によって、ポエジーがついに本能へ宿るわけです。
山へ降った雨が川となり、いずれ大海へ出る循環を示すようで、宇宙船地球号も真っ青ですね。
この方法をさらに敷衍して使えば、
姿見て 胸熱くなり 勃起して 不意に走って 大地爆裂
となります。もちろん、後輩の作った歌の方が優れていますが、方法としてはこれと同じです。
「勃起していく」という用語を使うことは、矢印としての勃起を採用することと同義なのです。
それが優れているかどうかはさておき、私が勃起短歌で夢見ることは、そういうことではありません。
「勃起している」という結句を採用する場合、それは常に、「不意に」という副詞を背に抱えています。
5、7、5、7という構築にいる他人。いわば磯野家におけるノリスケとしての勃起。
物語のフィナーレではなく、「風と共に去りぬ」と同時期の明治維新のような、
もっといえば、東日本大震災が起こらなかった世界では、3月12日に石巻で人殺ししていたはずの人間のような勃起。
物語は浄化します。雑念と怠惰によって染められた灰色の日常すらも、物語は浄化します。
私は願わくば、「勃起している」という言葉が、それを打ち消してくれることを期待しています。
「勃起している」という言葉には、きっぱりとビフォアとアフターが込められています。
勃起する前と、勃起した後というシチュエーションが含まれています。
「勃起している」という言葉自体が一つの物語であって、だからこそ、5、7、5、7という制度が生み出す物語と
別の物語を奏でられると思っています。
「勃起していく」であれば、そこにはアフターこそあれ、過去は存在しません。まるでキリストです。
とはいえ、勃起なんてたかが勃起です。大いなる破壊でも邪悪な悪意でもなく、爽快な朝には付き物のの
おちゃめなハプニングです。
私が自分の作った勃起短歌で気に入っているものは
忘れ物 忘れた夏に イルカごと 溺れた彼氏が 勃起している
というものです。この解説を今度します。
さようなら。
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