2012年3月27日火曜日

具体的な勃起短歌について①

こんばんは。BJです。
私の短歌
忘れ物 忘れた夏に イルカごと 溺れた彼氏が 勃起している 
という短歌について書きます。

それはともかく、過去というのはカノープスより遠い銀河です。
そこへ辿り着く手段があったとしても、
それを生み出すのは文明、科学の力ではないでしょう。
タイムマシーンというものが出来て、西暦1000年前に行けたとしても、
私という現在はずっと現在のまま、周囲は過去なんでしょうけれど、
それでは過去へ行ったということになりません。

それでも私たちは何かを思い出したりするのですから、確かに過去というものはあったようで、
過去はないのではなく、ただ遠いということになります。
そういう意味では、私たちはカノープスより遠くからこちらへと、常に移動し続けているようなものです。
思い出すというのはその旅路を地図に辿ることと同じです。
とはいえ、思い出すということ、それにも少なくとも二種類はあるように思います。
つまり、自ら過去を描き出す、思い出す、と、ふとしたきっかけである瞬間がよみがえる、思い出すです。
先の思い出すは、マスターベーションです。
自分の、自分による、自分のための1人称物語を読んでいる状況です。
自分という人称の示される範囲内にある飛び石を踏んでいます。
remember の主語がIである状況です。re-と参照される辞典が自分であるわけです。
歩いたときに気付いて印を付けた場所を辿る作業です。

後の思い出すは、痴漢です。
歩いたときに気付きながらも、しかし印を付けなかった場所を、
誰かか何かに教えられる思い出す、です。

自分で自分を痴漢するためには、困難な病気が必要です。
その病名を私は知りませんが、症候としては、自分が自分であることを忘れるというものです。
その病気に罹った場合は、前者の思い出すはもう有得ないので、
つまるところ前者でありながら後者であることは不可能です。
動物たち、鏡に映る自分を敵と認識する動物たちは、みんなこの病気の患者といえます。

しかし、後者という痴漢体験もまた、すぐさま前者へと移り変わります。
ラジオかコンビニで流れていた曲で唐突に郷愁の雨に打たれても、
帰宅しyoutubeにその曲を求めてしまうや否や、すぐに郷愁のための郷愁、
自動車教習所の再履修に成り果てます。成り果てます。

上記の短歌は、忘れ物を忘れた、という間抜けの報告から始まります。
何を忘れたか忘れた、という状況は、その忘れ物が大して重要でなかったことを示しています。
忘れ物が車の鍵やプレゼント、バイアグラ等であれば、それが必要なタイミングで思い出されることは
確約されています。追憶の時限爆弾で爆死すること請け合いです。
したがって、ここで忘れられたものは忘れられても良かったものだとわかります。
必要という言葉はいつも曖昧なニュアンスで、みそラーメンのような後味ですが、
この忘れ物は明石焼きで、みそラーメンとはきっぱり違います。

そしてそれは夏です。
最近ようやく春めいてまいりましたが、季節はいつも不意にいます。
殊更夏、確かに手応えという点では冬と双璧ですが、夏の夏らしい夏っぽさといえばもう夏です。



ここから次回。

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