2012年12月11日火曜日

手紙に書くほどでもないことは、手紙にしか書けない。

町田康に「工夫の減さん」という短編があり、その冒頭部分が大変に好きである。
以下、引用。

減さんから手紙が来た。手紙というと娘のようだけど減さんはおっさんである手紙には、
「猫の子をひらったので見に来て下さい。とても可愛い。名前をつけてください。今年の冬は厳しいきつい、ピース」と書いてあり、ピースの後に、Vサインをする手の絵が描いてあった。減さんはたったこれだけのことを白紙に書き封筒に入れポストのところまで歩いていって投函したのだ。俺は減さんに電話をかけた。
「別に電話でもいいよ」
「うん。でも仕事中だったら悪いと思って」
「仕事中でも別にいいよ」
「じゃあ、今度は電話にするよ」
「そうしてよ」という話は以前にもした。しかし減さんは相変わらず電話をかけてこず、俺はなかなか猫の子を見に行けなかった。


一読したとき、「別に電話でもいいよ」が返答の一言目として出てくるのがしっくりきた。減さんの手紙に対する反応として最も"かくあるべき"な台詞だと思われた。よほど印象に残ったのか、僕はこれを読んで以来、たまに「別に電話でもいいよ」のくだりを何の理由もなく急に思い出すことがあり、そのたびににやりとしている。

(僕は本を読んでいて気に入ったり感銘を受けたりした箇所には傍線を引くことが多いのだが、いま改めてこの短編が収録されていた講談社文庫『権現の踊り子』を開いてみても、「別に電話でもいいよ」の箇所には傍線を引いていない。結局覚えているのが線を引いた箇所ではなくこういう瑣末なシーンであったりするということは多々あるもので、まったく「印象」というもののとらえどころのなさには首を傾げざるを得ないなあと思ったりするのだが、そんな話はべつに今回の話とは関係ないので、この括弧つきの部分については書かなくてもよかったなと後悔している。)

というわけで先日も、風呂に浸かってじっといるときにこの「別に電話でもいいよ」を思い出し、にやっとしたわけなのだが、そのときにふと疑問が浮かんだ。
はたしてあの減さんのあの手紙は、本当に「電話でもいい」ものなのだろうか。電話であれを話されるのも、それはそれで、しんどくないか。実際に電話で語られていたとしたら、どんな感じだったろう。その会話をいくらか想像上で捏造してみると、

「もしもし、減ですが」
「あ、減さん。どうしたの」
「いや、実はね、猫の子をひらったんだよ」
「猫の子?」
「うん、だから、見に来てほしいんだ」
「ああ、へえ、そうか」
「とても可愛いんだよ」
「ああ、ほんとに」
「で、もっと言うと、名前をつけてほしいんだよね」
「名前?」
「うん」
「俺に?」
「そう」
「ああそう」
「駄目か?」
「別に良いっちゃあ良いけど」
「まあ考えといてね」
「うん」
「今年の冬は厳しいな。きついな」
「そうだね」
「じゃあね」
「はあい」
「ピース」
「はあい」

もちろん町田康が書けばまた違った趣向の会話にはなっていたであろうが、多かれ少なかれ、減さんと「俺」の会話は実りの少ない、微妙な空気の漂うものとなっただろう。

当たり前だが手紙は電話ではない。電話は会話である。絶えず発言が寄せては返す。しかし手紙の場合、発話のベクトルが逆転する回数は極端に少ない。何度もやり取りする文通であろうと、それは会話の比ではない。基本的には、ある程度の質量を持った言葉の塊がゆっくりと一方向へ進んで届く、そんな装置のはずだ。

この特徴のために、会話では出来ないことでも、手紙では出来てしまうということがある。会話をキャッチボールと表現する例に倣えば、それは”暴投”だと思う。

会話において暴投は許されない。相手が取れない球、反応しにくい球を放るとキャッチボールが成立しなくなる。しかし手紙なら許される。暴投を投げられたところで、無理に球をとりにいかなくてもいい。つまり返事しなくてもいい。最悪、相手の反応がなくても手紙には意味があるということだ。電話や会話は違う。一方が無言だと崩壊する。

結婚披露宴で、新婦が「お母さん今まで育ててくれてありがとう」のような手紙を読み上げる。あれも手紙だから成立することで、会話でやったとすればえらいことである。普段の生活のなかで言われても母親は照れくさくてもじもじしてしまうだけで、ろくな会話は成立しない。「なんやの、急に!」くらいしか言えない。直接話すには不適格な内容だからこそ、暴投を許容する手紙に書くのである。

遺書なんて暴投の最たるものだ。はなから相手の返事など期待していない。自分が一方的に投げ、さっさといなくなってしまう。本当の本気で自殺することを決めていて、他の選択肢に変えるつもりがないのなら、口頭で誰かにその意志を伝えるのは難しい。たいてい止められて議論が衝突し、会話がうまく運ばないだろう。しかし遺書という手紙の形をとるならそれはスムーズだ。

『猫の子をひらったので見に来て下さい。とても可愛い。名前をつけてください。今年の冬は厳しいきつい、ピース』
これも暴投だと思うのだ。「俺」は「電話でいいよ」と言うが、電話でこれを話されても、きっと微妙な反応しか返せない。上のほうに書いたような、間の抜けた会話になってしまう。減さんはそれを避けるために手紙を選んだのではないか。まさに減さんの用件は、『たったこれだけのことを白紙に書き封筒に入れポストのところまで歩いていって投函し』なければ伝えられないことだったのだ。手紙にわざわざ書く必要のないようなことは、手紙にしか書けないのである。
思いのほか、減さんはとぼけた人ではないのかもしれない。

2012年6月30日土曜日

ほをずり6月号をどうぞ


洗濯乾燥機が大活躍する梅雨です。

天気の悪さを言い訳に家にこもり、穏やかな雨音を聞きながら本を読むのがこの時期の楽しみですね。

ほをずり6月号を東京、京都の書店に置いてもらっています。



タコシェさん/東京・中野ブロードウェイ3



京都大学ブックセンタールネさん




どちらも210円で購入できます。

雨の日のお供に是非どうぞ。





京都では明日から祇園祭が始まります。

コンコンチキチンとお囃子の練習が聞こえると、一足先に夏の到来が感じられてうきうきします。

松山

2012年6月24日日曜日

遅ればせの6月号!

というわけで、「ほをずり」6月号がようやく印刷されてきました!
もう6月終わるで! ばいやーばいやー!
今月はじゃっかん薄めなほをずりですが、みなさまよろしくお買い求めの程を。。。




2012年5月27日日曜日

勃起短歌に内在する二つの対立について①

こんにちは。
勃起短歌師範代、BJです。勃起短歌について書きます。

勃起短歌は、「勃起している」を結句とする優れた短歌を指すのですが、
これまでに、2人の女性から、2種類の女性的勃起短歌が提出されたことがあります。
その内の1人は「股は濡れない」を結句としているもので、
もう1人は「股濡れている」を結句としているものでした。

この対立は非常に感興をそそるものであります。
そもそも、私としては、女性でも勃起する部分がある以上、
勃起短歌は男性短歌ではないと思っておりますし、もしそうであるという印象があるならば、
私が男根中心主義者なのではなく、勃起という概念が男根中心主義に陥っているせいです。

また、勃起を男性器の勃起と捉えるとしても、
女性の側から見た勃起短歌は成立しますし、
例えば私の
童貞の くせに花など 買ってきて チーターの如く 勃起している
という優れた短歌は、童貞に恋された女性の、童貞をいじらしいと思う気持ちそのものです。
花を買うという行為は非常にJUNICHI ISHIDISMで、一昔前のプレイボーイのようで、
定番過ぎて、逆に童貞には思いつかなそうで、それをしてくれて嬉しくて、
でもやっぱりベッドインしたらすぐにゴールしちゃいそうでチーターみたいなのです。

とはいいつつも、やはり、勃起主は男性である以上、語る主体が女性であっても、
勃起短歌が男性短歌的である点は否定しにくいです。

そんなわけで、男性器の勃起に相当する女性の肉体的変異について提出されたのが、
「股濡れている」「股は濡れない」の2つでありますが、
この2つはいうまでもなく、きっぱり逆のことを言っています。
平仮名にして、ダブルミーニングを読み取っても、まったく逆です。
またぬれている、またはぬれない、つまりand wet againおよび、or don't wet
andとorの短歌にもたらす影響はさておき、
前者はどうみても雨季、スコールの季節、後者は乾季、砂漠の狩人ですね。きっぱり逆です。

そういうわけで、ここに二重の対立が生じました。
勃起している⇔(股濡れている/股は濡れない)

さて、こうして図式化してみると、何か欠如を感じませんか?
そうです、本来は
(勃起している/勃起していない)⇔(股濡れている/股は濡れない)
とあるべきなのです。

勃起していない男性器はどこにいったのでしょうか。
実は、彼の失踪にこそ、勃起短歌の秘密を解く一つ目の鍵があります。

ヒントを差し上げますと、
勃起した男性器と、勃起していない男性器では、
どちらがより破廉恥な場面に登場するか、ということです。

そんなもの、勃起した男性器に決まっているじゃないか、という人は、
もう一度濡れた股から出直してください。
勃起していない男性器は、いわば正常時であるわけですが、
正常であることをわざわざ正常であると言わねばならない時、
それはつまり非常時というわけです。
最近の発電所問題についても同様ですね。

勃起していない、を結句とするならば、先の5 7 5 7において、
勃起していなければいけない場面、つまり破廉恥な場面を描かねばなりません。
破廉恥な場面で始まり、それでいて「勃起していない」からこそ、短歌に興趣というものも
生まれるわけです。
ただその場合、勃起というのも破廉恥なワードですから、
「5 7 5 7 勃起していない」の
         ↑ ここに、それほど大きな分断が成せないわけです。
勃起短歌における分断の重要性は、以前書いたので書きません。

私は勃起短歌を人間についての短歌としたいと思っているので、破廉恥なことなど言いたくありません。
破廉恥はもちろん人間の一部ですが、一部は一部です。

こうして彼、勃起していない男性器の居場所が墓場であったことが発覚したところで、
もう1つの対立に話を進めます。

股濡れているか、股は濡れない、か。

これも非常に大きな問題です。というのも、濡れない股もまた股であり、
いわゆるレイプ問題というのもそこに集約されるからです。
攻撃に武器は必須ですが、防御に準備は問われません。
したがって、勃起している、という言葉に付随する、不随意運動である、という点においては、
股濡れている、も、股は濡れない、も同様です。

ここから次回

2012年5月15日火曜日

デートみたいなデートしたい


こんばんは! またエノキダでごめんね! ということはエノキダだよ!
先週に引き続き、女友達に恋愛相談をしたら「15歳か」と言われたよ。
それから2人で、15歳当時の発掘眼のなさを嘆いたね!

『ほをずり』4・5月合併号に、わたしは3本のエッセイ?を書きました。
タイトルは、「コートでダッシュ」「デートみたいだね」「弁当箱と化粧落とし」

そのうちの「デートみたいだね」について話します。
このエッセイには、3人の登場人物が出てきます。
わたし(榎田恵子)、チカちゃん、よしむらひらく。
チカちゃんはわたしの友人です。かわいい友人。
よしむらひらくは、東京のシンガーソングライターです。
余談ですが、3人は同い年。今年25歳になる学年。

チカちゃんとわたしは2年前まで同じ大学に通っていました。
今はバラバラに暮らしているけれど文通を続けていて(ええやろ、羨ましいやろ)、緩やかにつながっています。
けれど、わたしはチカちゃんのことを忘れたりする。
「あ、わたし、チカちゃんのこと忘れて暮らしてた」と気づく瞬間はとてもかなしくて、
チカちゃんからの手紙を読んで「しまった」と思った次の瞬間、たまたまi podからよしむらひらくが「とうとうぼくは 憂き目にあって とうとう君は 負い目をおって」と歌い出して、わたしはこのエッセイを書くことに決めました。
彼のうたう「ぼく」も「君」も透明なのが、すごく切なかったんだと思います。

ベラベラしゃべりすぎたかな。

3月のある日、緊張しながら よしむらひらくに「歌詞使っていいですか」って連絡して、「いいですどうぞ」って返事をもらって、この間やっと『ほをずり』を送ることができました。

読んでくれたみたいで、よしむらひらくブログにまで書いてくれて、わたしはちょっと感動しています。
あんなに大切に思ってたひとのことでも すっかり忘れて笑って暮らせてしまうあなたに読んでほしいし、聴いてほしいと思います。クリック・クリック!

2012年5月8日火曜日

連休からの帰還おめでとう


初めましての方も竹馬の友もこんにちは! エノキダです!
女友達に恋愛相談をしたところ、「恵子ちゃん思い上がってない?」と言われ、
男友達に恋愛相談をしたところ、「榎田さん、○○君のこと殺せそうやな」と言われた!
次どのタイミングで連絡とろっかなァ~!

文学フリマはねー、とても励みになりました。
網谷くんも書いていたけど、「こんなにたくさんのひとが勝手に文章書いて形にしてるだなんて・・・あっぱれだぜ東京」とガツーンと打ちのめされたのがひとつ。
外海を知ることはとても大切ね。
「ほをずりってどんな本なの?」という質問に向き合う機会をいただきました。

それから、買おうかどうか迷ってらっしゃるお客さんに「わたしはねー、この勃起短歌が好きよ!」「わたしはこのページが好きよ!」と何度か話しかけました。
そうしたら、わたしはどんどんそのページが好きになっていくのね、不思議ね不思議ね。好きなものを好きって言ったら誰かに聞いてもらえるって環境ってサイコーね。

あとはねー、イベントがなければ手に取ることはなかっただろうジンに書かれた文章を読んでいたら、性描写っていきなり出てくるとこんなにびっくりするもんなんやなと、齢24にしてやっと気づきました!
「殴るときは気持ちこめなきゃ」とは、いつか映画で学んだセリフです。
精進しま~っす!

そうそう、報告が遅れましたけど、『ほをずり』4・5月合併号、毎度おなじみ
中野ブロードウェイ3F奥・タコシェさんに置いてもらっていまーす!
バックナンバーも随時補充していますので、合わせてどうぞ!
他に「ここに置いてもらったら?」というアドバイスがあればいつでもくださいプリーズ。

うふふ、わたしってば皆さまに励ましていただき、お世話になりっぱなしね。
いつかきちんと返せるといいのですけど。

2012年5月6日日曜日

文学フリマ!

今日(5/6)に行われた文学フリマに「文芸誌『ほをずり』」として参加してきました!
4・5月合併号や旧作を合わせて77部、みなさまにお買い上げ頂きました。ありがとうございます。
「ほをずりす」の人気っぷりと、奇才BJ氏の「勃起短歌」の集客力に驚きました笑

それにしても、文フリ初参戦だったわけですが、これほど熱気にあふれていたとは! 
むちゃくちゃ沢山の人が、それぞれ自分たちの思う「文学」をぶつけたものを頒布されていて、少々感動いたしました。次回も是非参加したいと思いました。

ご来店ありがとうございました。 
ほをずりは ひとりでは できない!!!

2012年5月2日水曜日

4・5月合併号!

はっふーい!
「ほをずり」4・5月合併号が刷り上がってきました!
5/6文学フリーマッケットでは、D-53ブースでお待ちしておりますので是非お越しください。
一部200円で、バックナンバーともども販売しています。


BJ氏の勃起短歌は相変わらずいろんなモノが爆発しています。短歌を一種引用すれば・・・
ふるさとの 名前を売った 春の午後 東京の隅で 勃起している
少し前に、財政悪化の影響で市のネーミングライツを売るというニュースがありました。そこはかとない寂寞が勃起に込められているようでもあります。
今回は、勃起短歌の解説付きということで、作者がその世界観を露出していて興味深いです。
「勃起とはかつて憧れだった・・・」 ほんまかいな

榎田氏エッセイは今回は小説仕立て、彼女曰く「女性に気に入ってもらえればそれでよし」とのことです。確かに、女性の共感は得られそうです。
僕は「コートでダッシュ」に痺れました。「俺さ、九十九パーセント間に合う、って思ってるで」という言葉が出てくるのですが、その余裕感にグッと来ます。
「弁当箱と化粧落とし」は、社会人の主人公と大学院生の彼氏の別れ話の顛末を描いた小説。「オンとオフの感覚」がある社会人とそれがない大学院生、という構図が、絶妙に別れ話と結びつき、結びつくと同時にズレを含んで重ねられます。

僕の小説は、反原発デモの警備をする警察官を描いたものです。
僕には基本的に、あんな平和な日本のデモに警察官がわらわらといる意味が分からないですし、路上の片側しかデモに解放されていないのにもイライラします。
しかし、小説の動機はもうちょっと複雑です。デモは肯定したいけれども、どこかそういう政治的な意識の高い人々から疎外されて、かつ権力の側に属してしまった人間を描きたくて、この小説を書きました。

也田氏は、不条理的な小説「貝に砂」と、創作「響きで決めるカタカナ語辞典」の二本立てです。
「明らかに、僕が食べる貝には砂が入っていることが多い」という書き出しで始まるこの小説。なんだかちっぽけなことに思えるが当人にすれば結構いちいち苛立たしい偶然が、驚くような結末にいたります。「響きで決めるカタカナ語辞典」は、也田氏が時折twitterで流しているものですが、言葉遊びのセンスで勝負です。例えばこういうもの。
【ザッケローニ】
ズッキーニよりひとまわり大きい野菜。表面は黒く中は白い。味は大根に近い。中央の鍋料理に半円状に着られた状態で入っていることが多い。

松山氏の詩は、タイトルからなにか恐ろしいものを感じる「菩薩のごとく」にびっくりします。並びが「理想」、「キス」ときて「菩薩のごとく」! 
「キス」からちょっと引用してみましょう。「キス」という語感が繰り返されてリズムが良いです。
青い痣の残る手の甲にキス
生意気に尖る唇にキス
草の匂いのする黒髪にキス
言葉の代わりに愛を吹きこんで
弾ける瞳から好奇心は蝶々のように
花から花へとせわしなく舞う
見渡す限りの可能性に羨望のキス
いつか芽吹く夢には 願いを重ねてしまうだろう


みなさんに読んでいただくことを、一同楽しみに待っています!

2012年4月26日木曜日

也田的映画珍言集1

也田貴彦です。


さて今回は、
映画史には別に燦然と輝いていないけれども
僕の心にはぐっときている
そんな名セリフ、珍言、を紹介したいと思います。




今回の映画…
「ティファニーで朝食を」(1961)

ご存知、ヘプバーンの代表作。原作はカポーティですね。
自由気ままに生きる女性と、作家の青年が織りなす
ラブロマンスです。


そのなかで、
今回ご紹介する珍言は、

ヘプバーン演じるホリーと
恋人であるポールが痴話喧嘩するシーンで、
ホリーが相手に向かって吐き捨てた
素敵なセリフです。










「普通ならあのドアまで4秒かかるけど、2秒で出て行って!」










素晴らしいですね。

「普通ならあのドアまで4秒かかるけど」とわざわざ論理的に補足説明してしまうところに
彼女のなみなみならぬ憎悪が乗っかっています。

早く出て行ってほしい旨を、
怒りながらも分かりやすく丁寧に伝えようという
その静かなる執着心。
ぞくぞくしますね。



・・・・


「文藝誌ほをずり」4・5月合併号、まもなく刷り上がります。
ご興味のある方はいつでも
howowzuri@gmail.comにメールください。




2012年4月17日火曜日

文学フリマ

也田貴彦です。
4・5月合併号の原稿をいま書き上げました!

今回は
小説と、辞典のようなものと
そしてありがたいことに
あとがき、を書かせてもらっています。

大阪は本町のスターバックスで
店員さんの目を気にしながら
何時間も居座り続けて
Macをかたかたし続けた甲斐あって
なかなかおもしろいものができたと思っています。
明日からは心斎橋のスターバックスで
店員さんの目を気にしようと思います。



今回はみんな特に気合い入っていて
いつもに増しておもしろい雑誌になっていると思います。

なぜ特に気合いが入っているかという話ですが…

この「文藝誌ほをずり」が
5月6日に開催される文学フリマに参加することになりました!
D-53番のブースにて「ほをずり」を販売します。

ものすごい数の文学系の雑誌がフリーマーケットで
売られる楽しいイベントですので
ぜひおこしください!


文学フリマ
5月6日(日)11:00~16:00
東京流通センター第2展示場

2012年3月27日火曜日

具体的な勃起短歌について①

こんばんは。BJです。
私の短歌
忘れ物 忘れた夏に イルカごと 溺れた彼氏が 勃起している 
という短歌について書きます。

それはともかく、過去というのはカノープスより遠い銀河です。
そこへ辿り着く手段があったとしても、
それを生み出すのは文明、科学の力ではないでしょう。
タイムマシーンというものが出来て、西暦1000年前に行けたとしても、
私という現在はずっと現在のまま、周囲は過去なんでしょうけれど、
それでは過去へ行ったということになりません。

それでも私たちは何かを思い出したりするのですから、確かに過去というものはあったようで、
過去はないのではなく、ただ遠いということになります。
そういう意味では、私たちはカノープスより遠くからこちらへと、常に移動し続けているようなものです。
思い出すというのはその旅路を地図に辿ることと同じです。
とはいえ、思い出すということ、それにも少なくとも二種類はあるように思います。
つまり、自ら過去を描き出す、思い出す、と、ふとしたきっかけである瞬間がよみがえる、思い出すです。
先の思い出すは、マスターベーションです。
自分の、自分による、自分のための1人称物語を読んでいる状況です。
自分という人称の示される範囲内にある飛び石を踏んでいます。
remember の主語がIである状況です。re-と参照される辞典が自分であるわけです。
歩いたときに気付いて印を付けた場所を辿る作業です。

後の思い出すは、痴漢です。
歩いたときに気付きながらも、しかし印を付けなかった場所を、
誰かか何かに教えられる思い出す、です。

自分で自分を痴漢するためには、困難な病気が必要です。
その病名を私は知りませんが、症候としては、自分が自分であることを忘れるというものです。
その病気に罹った場合は、前者の思い出すはもう有得ないので、
つまるところ前者でありながら後者であることは不可能です。
動物たち、鏡に映る自分を敵と認識する動物たちは、みんなこの病気の患者といえます。

しかし、後者という痴漢体験もまた、すぐさま前者へと移り変わります。
ラジオかコンビニで流れていた曲で唐突に郷愁の雨に打たれても、
帰宅しyoutubeにその曲を求めてしまうや否や、すぐに郷愁のための郷愁、
自動車教習所の再履修に成り果てます。成り果てます。

上記の短歌は、忘れ物を忘れた、という間抜けの報告から始まります。
何を忘れたか忘れた、という状況は、その忘れ物が大して重要でなかったことを示しています。
忘れ物が車の鍵やプレゼント、バイアグラ等であれば、それが必要なタイミングで思い出されることは
確約されています。追憶の時限爆弾で爆死すること請け合いです。
したがって、ここで忘れられたものは忘れられても良かったものだとわかります。
必要という言葉はいつも曖昧なニュアンスで、みそラーメンのような後味ですが、
この忘れ物は明石焼きで、みそラーメンとはきっぱり違います。

そしてそれは夏です。
最近ようやく春めいてまいりましたが、季節はいつも不意にいます。
殊更夏、確かに手応えという点では冬と双璧ですが、夏の夏らしい夏っぽさといえばもう夏です。



ここから次回。

2012年3月17日土曜日

おっぱい褒めろよ~って話です

こんにちはー、エノキダです。
ひと雨ごとに寒さもゆるみ、春の気配がちらほらと、と言う割りに寒いな! といったところでしょうか。
まだまだ風邪をひきやすい時期です。
どうぞお気をつけて。

さて、3月号掲載分ぐらいから、エッセイを書くのが楽しくなりました。
〆切を設けて、コンスタントに文章を書き続けてみることに慣れたのでしょう。
肩の力が抜けたといいますか、そもそも誰かへの嫌味や当てつけを燃料にせずとも書けるようになったこともあるのでしょうが、自分で読み直して「あちゃー、やなやつー」と思うポイントが減りました。

そんな3月号を読んでくれた友人(女)から今朝、 
「わたし、けいちゃんのおっぱいやわらかくて大好きじゃー」 
というパーフェクトな感想?をもらって、 わたしは「『ほをずり』つくっててよかったーー」と思いました。

別に下ネタとか何でもなく、おっぱいって誰かに求められてなんぼだよね、とわたしは常々思っています。
だって、こんな脂肪の塊が上半身についていたところで自分の役には立たないじゃないですか。あ、役に立たないんですよ男性諸君。
第一にきっと赤ちゃんのためでしょ。
それから第二に、まあ、そういう営みに役立つというか、まあいいじゃないですか。 そりゃやわらかいし触っておもしろいもんだと思いますよ。
あはは、だけどやっぱり自分ひとりのための部位ではないでしょう?

おっぱいって、ただ持ってるだけじゃ役目を果たせないし、ひとりぼっちでいたんじゃ、おっぱいの価値って見出せないな、ということをよく思います。
でも、見出したいでしょ、自分の価値とかおっぱいの価値とか。
わたしのからだにおっぱいがついている限り、わたしの価値をひとりで説明し切ることはできないね、する気もないけどね、ふふふ、そんな3月号、ぜひ読んでください。
あと、他のメンバーもおもしろいこといろいろ書いてました3月号。 みんなの価値も見出してください。

2012年3月8日木曜日

3月号!!



お久しぶりです。
ついに3月号が刷り上がってきました。

僕が書いた小説は今回で完結です。あとがきは、なぜかフーコーの話を延々しております。趣味です。
ぜひお読みくださいませませ!

目次

エッセイ  絵はがき/悪寒と湿布/かわいいあの娘の記録 ・・・ 榎田恵子
詩作    去る君へ/いたむ/熱烈な恋を詠う/図書室   ・・・ 松山行
小説    剥がれ落ち日記                     ・・・ 也田貴彦
小説    顔(2)                           ・・・ 網谷壮介
短歌    墓参りの勃起短歌                    ・・・ BJ番匠

表紙・デザイン 神谷悠貴

ほをずりをご購入していただける方は
howowzuri@gmail.com
にご連絡下さい。
200円+送料250円を お振込みいただくことになります。

2012年3月6日火曜日

勃起短歌について

こんばんは。BJです。

勃起短歌について書きます。

以前後輩が
初恋は 振り子細工の 心やで 好き好き大好き 勃起している


という勃起短歌を読んでくれました。それについて、先輩が、ここは


初恋は 振り子細工の 心やで 好き好き大好き 勃起していく


とした方がいいというアドバイスをされていました。
確かに先輩のおっしゃる通りで、好きという気持ちベクトルが勃起ベクトルに還元されていく様子として、
勃起している、というより勃起していく、の方が適切な表現と言えます。


とはいえ、勃起しているのか、勃起していくのか、「る」か「く」か、
これは勃起短歌を考える上で、非常に重要な問題であると言えます。


私はこれマデの人生において、100首以上の勃起短歌を読んできました。
恥の多い人生を送ってきました。
親に合わせる顔もなし。国家の恩に報いる由もなし。何が勃起短歌だ。
そもそも、私は特に絶倫ではないのです。。。
そんなことはどうでもいいとして、私の勃起短歌は、すべて「勃起している」を五句目として成立させています。


100首読んだとはいえ、私の分類では、方法としてはおよそ三種類ぐらいでしか読んでいません。
そして私の方法によると、「勃起していく」ではなく、「勃起している」となってしまうのです。


「勃起していく」場合、それはいわば物語のグランドフィナーレとしての勃起が想定されねばなりません。
「いく」というのはベクトルですから、ベクトルで終わるということは、
それマデの過程もベクトルであることを強制するのです。
ツマリ、5、7、5、7というリズム制度は、勃起のための滑走路としての役割を果たすわけです。
「勃起」というサビを奏でるためのプレリュードとしての5、7、5、7となります。


話を具体的に戻しますと、


初恋は 振り子細工の 心やで 好き好き大好き 勃起していく


という短歌において、


初恋は 振り子細工の 心やで 好き好き大好き


という表現は、初恋をまず比喩で表現=説明し、それから気持ちを連呼=絶叫するという構成を取っております。
いわば理性から熱情へ、脳から心臓へとポエジーが移行していきます。
そして締めの
勃起していく によって、ポエジーがついに本能へ宿るわけです。
山へ降った雨が川となり、いずれ大海へ出る循環を示すようで、宇宙船地球号も真っ青ですね。


この方法をさらに敷衍して使えば、


姿見て 胸熱くなり 勃起して 不意に走って 大地爆裂


となります。もちろん、後輩の作った歌の方が優れていますが、方法としてはこれと同じです。
「勃起していく」という用語を使うことは、矢印としての勃起を採用することと同義なのです。
それが優れているかどうかはさておき、私が勃起短歌で夢見ることは、そういうことではありません。


「勃起している」という結句を採用する場合、それは常に、「不意に」という副詞を背に抱えています。
5、7、5、7という構築にいる他人。いわば磯野家におけるノリスケとしての勃起。
物語のフィナーレではなく、「風と共に去りぬ」と同時期の明治維新のような、
もっといえば、東日本大震災が起こらなかった世界では、3月12日に石巻で人殺ししていたはずの人間のような勃起。


物語は浄化します。雑念と怠惰によって染められた灰色の日常すらも、物語は浄化します。
私は願わくば、「勃起している」という言葉が、それを打ち消してくれることを期待しています。


「勃起している」という言葉には、きっぱりとビフォアとアフターが込められています。
勃起する前と、勃起した後というシチュエーションが含まれています。
「勃起している」という言葉自体が一つの物語であって、だからこそ、5、7、5、7という制度が生み出す物語と
別の物語を奏でられると思っています。
「勃起していく」であれば、そこにはアフターこそあれ、過去は存在しません。まるでキリストです。


とはいえ、勃起なんてたかが勃起です。大いなる破壊でも邪悪な悪意でもなく、爽快な朝には付き物のの
おちゃめなハプニングです。


私が自分の作った勃起短歌で気に入っているものは


忘れ物 忘れた夏に イルカごと 溺れた彼氏が 勃起している


というものです。この解説を今度します。


さようなら。

2012年2月20日月曜日

メッセージ・フロム・エノキダケイコ

皆様こんにちは。
榎田です。

『ほをずり』2月号も
1月号に引き続き、
(東京・中野/
ミニコミコーナー)

100000tさん
(京都・寺町二条)

(京都・百万遍/
文芸雑誌コーナー)

に置いてもらっています。
若草色の背表紙を目印に、どうぞお手にとっていただけましたら幸いです。
そしてどうぞご遠慮なく、メールをください。


さて、この2月号では、わたしは「石けん」「タバコ」「幸せって何だっけ」という3つのエッセイを書きました。
この記事の写真は、「石けん」に出てくる石けんです。
拙い文章からだけではなかなか想像しにくいかったろうと察します。こんなのでした。
今回のエッセイのうち、石けんの話とタバコの話は、「乙女の七つ道具シリーズ」だなんて勝手に名づけながら書きました。石けんもタバコも、私のなかではただの物にはおさまらない、言うなればアイテムとして存在感を放ち続けるものです。
そんな思い入れのあるアイテムたちを出発点にペンをとりました。
続くかな、乙女の七つ道具シリーズ。どうぞ見届けてください。
「幸せって何だっけ」は、何でもない手紙です。

先の1月号では、エッセイ3本よりもあとがきの方が好評で、嬉しい半面、エッセイって難しいなと今更ながらに感じました。
自分のなかでは、くず取りネットを繕う話の終わり方なんて上手に書けたなぁと思っていたのですが、誰もそんなとこ褒めてくれなくて笑っちゃいました。
「とりあえず今からくず取りネットの掃除します」
今まであまり話したことがなかったひとから、そんなお手紙をもらってとてもうれしく思いました。
糧にして、精進します。

最後になりましたが、『ほをずり』に興味を持ってくれて、ありがとう。
ひとりひとりにお礼のお手紙書きたいぐらい、とても励まされています。
まだまだ寒い日々が続きますが、どうぞご自愛のうえ、おほをずりください。

それでは。

2012年2月16日木曜日

ウラヌスも嫌いじゃなかった

也田貴彦です。


僕は24歳でして、同世代の方なら共感いただけると思うのですが
子供のころに見たアニメで
闘うことの困難さ・大切さ
仲間の偉大さ
を教えてくれた傑作と言えば…

そう。
セーラームーンです。
有無を言わさず。

今に至るまで貫かれている僕のショートヘア好きは、
セーラーマーキュリーがダントツで好きだったことに起因しています。
それほど僕の人生に影響を与えた作品です。


そのセーラームーンのテーマ曲で、僕の印象に妙に残っているものがあります。
「乙女のポリシー」という曲です。

「ムーンライト伝説」の影に隠れてあまり目立っていませんが、
僕はいまでもたまに口ずさんでしまいます。

なにがそんなに僕の心に響いたのか考えてみたのですが…
「乙女のポリシー」のサビの歌詞を引用します。


こわいものなんかないよね
ときめくほうがいいよね
大きな夢があるよね
だからピッと凛々しく


ポイントは語尾だと思うのです。
「よね」という。

これが仮に


こわいものなんかないよ
ときめくほうがいいんだ
大きな夢があるのさ
だからピッと凛々しく


だと、「そうですか」となり、陳腐なポップスになってしまいます。


「こわいものなんかない」「ときめくほうがいい」「大きな夢がある」というのは
立派で主観的な意見の表明なのですが、
そこに「よね」という付加疑問がくっつくことで、
偉そうに言ってるけど実は自信を持ち切れておらず
同志へ依存してしまう可愛らしさ・人間味が、
顔を覗かせるのです。


そういう意味で、
ほんの少し体重を預けられる同志がいるというのは幸せなことです。
自分の手元にも届いた「ほをずり2月号」を読んで、ふとそんな事を思いました。

才能あふれる同志たちと
「こわいものなんかないよね」「大きな夢があるよね」と檄を飛ばしあいながら、
ピッと凛々しく執筆に励んでまいりますので、応援よろしくお願いします。

2012年2月10日金曜日

2月号!!

おまたせいたしました!
ついにさっき、2月号が刷り上がってきました。
写真ではわかりにくいですが、若草色の春めいた(先取り!)表紙になっております!


ラインナップはこちら! 


詩篇  跳ねる/窓/うごかない時間   松山行

小説  顔(一)            網谷壮介

小説  ファミリー・コンダクター    也田貴彦

創作  三つの処女作における勃起群/勃起短歌  BJ番匠

エッセイ  石けん/タバコ/幸せって何だっけ   榎田恵子

あとがき  松山行  

2012年2月8日水曜日

フレデリック

ハイホー!
網谷です。
明日(というか厳密には今日、あと8時間後)に修士論文の口頭試問を控えて緊張のあまり寝付けないので、ブログを書いてみることにしました。

上の写真は、僕が大好きなレオ=レオニという絵本作家の『フレデリック』という作品と、united arrows green labelで売られているフレデリック!
フレデリックは「ちょっと変わったねずみ」なのです。
絵本は、ねずみたちが冬ごもりのためにせっせと食料を集めているところから始まります。だけど、フレデリックだけはみんなが働いている中で、一人ぼんやり空想にふけっています。
「フレデリック何をしてるの?」とみんながたずねても「寒くてくらい冬の日のために、僕はおひさまの光を集めてるんだ」とか「色を集めているのさ。冬は灰色だからね」とか「僕は言葉を集めてるんだ」などと答えます。
さて、いよいよ冬ごもりにはいり、巣の中でこごえそうになりながらみんなは小さくなっています。最初あった食べ物もだんだんなくなっていき、みんなが元気をなくしていきます。活発だったおしゃべりも、しだいに途切れていきます。そのときみんなは思い出します。「フレデリック、君が集めたものは一体どうなったんだい?」
そこでフレデリックは言うのです。「目をつむってごらん」
そして今まで自分が見てきた色や、言葉を伝えるのです。そうすると、みんなの頭の中には暖かかった日々のことがありありと思い浮かんできて、幸せな気持ちになるのです。フレデリックが集めた言葉は、詩のように野ねずみたちと四季のうつろいを歌いかけます。みんなは、冬ごもりの退屈も忘れて拍手喝采。フレデリックを褒め称えます。
「驚いたなあ、フレデリック。君って、詩人じゃないか!」
フレデリックは紅くなってお辞儀をします。そして、恥ずかしそうに言いました。
「そういうわけさ」

それだけの話しなんですが、僕はこのおはなしにすごく魅了されます。なによりレオ=レオニの切り絵が愛らしい。そして、この絵本が、例えば「アリとキリギリス」のような教訓話にならなくて、「詩人」フレデリックを豊かに優しく伝えるところ。

僕らの『ほをずり』も、フレデリックのようであれたら、と思います。

2012年2月6日月曜日

100000tさんと京大生協さん

まだまだ気温は低くともすれば雪まで降るような気候なのに、洋服屋さんの店先にはもう春物がNEW ARRIVALしていて戸惑いますね。
20122月号から寄稿している松山行です。
今日はしとしと雨に濡れる京都の街を巡って、お店にほをずりを置いてもらってきました。

100000t さん
10万トン」さんです。ゼロは5つです。
京都市役所の横にあり、古本や古CDを扱っていらっしゃいます。
ビル横の細い階段を3階まであがって扉を開けると本の森、というようなお店です。
値段は210円なので、気軽に手に取ってみてください。

京都大学ブックセンター“ルネ” さん
京都大学生協の本屋さんです。
こちらも210円(組合員価格189円)で、文芸雑誌コーナーに置いてもらっています。

京都にお住まいの方は、ほをずりへアクセスしやすくなりましたよ!
京都へ旅行する方も、古都を堪能するついでに覗いてみてくださいな。
松山

2012年2月2日木曜日

損はさせないよ~(エノキダ)

こんにちワルシャワペシャワール!
どうも、物書きのエノキダです。

物書きなんて、ちょっと恥ずかしいね!

そういえば大学時代、楽器に詳しい友人に付き添ってもらい、楽器屋さんへエレキベースを買いに行きました。
はじめてのベース。あれこれ悩んで、よし、と買った帰り道。
友人が「これで今日からあんたもベーシストだ!」とわたしの肩を叩いて言ってきました。
とてもうれしく、だけどとても気恥ずかしい気持ちになったことをよく覚えています。

何が言いたいかって、物書きだってベーシストだって言ったもん勝ちってことですよ!
そして、ついでに何かを始めるのに遅すぎるなんてことはないってこと!
(ベースは驚くほどオブジェと化しています!)


さてさて、今日は、
「そうだ、ほをずりブログに交換日記についての記事を書こう! なんか公開交換日記っぽいし」
と思いついてパソコンを立ち上げたのですが、
「あ、交換日記エピソードはかなり微笑ましいから、エッセイのネタに取っておこーっと」
と思ってしまったので、今困っています。
さて。
こういうことがたまにあります。
わたしのエッセイは実体験ありきなので、
「この話、この気持ち、どこで発表しようかしら。
自分のブログかな、twitterにしようかな、エッセイにしようかな」
と迷ってしまうのです(也田くんのような創作の場合はまた少し違ってくるのでしょうけれども。そうでもない?)。

どれだって、読んでくれるひとは、不特定多数という体ですが、蓋を開けてみれば特定の身内プラスアルファでしょう。
でも、この不特定多数という「体」が大事ですね。
誰が読んでも、完結してみえるように!
それなりに筋を通して、リズムに気を遣う余裕があるならそれもよし、という緊張感。
(そういえば網谷くんは、一時期「普遍性」と「内輪ノリ」についてよく話してくれました。内輪ノリが楽しいのは当たり前じゃ、みたいなの。一方で「身内もノセられない奴には何にもできないよ」って言う先輩がいて、わたしの身は宙ぶらりんです。)

大きく分けてしまえば、わたしが書くものは手紙かエッセイか日記になるのだろうな、と思います。
twitterには140字という制限から、エッセイの卵になるかもしれない発見をつづります。
自分のブログは日記とエッセイの間です。
このブログは手紙とエッセイの間です。
1月号の「あとがき」も、手紙とエッセイの間かな。

さてさて、また落とし所のよくわからない文章を書いてしまいました。
ですます調で書いてるから、なんとなく丁寧に見えるってだけでしたね。
最後になりましたが、『ほをずり』2月号がもうすぐ出来てくるので、またよかったら読んでください。
1月号はおやすみしていた松山が、詩篇とあとがきを書いています。

わたしたちは期待されて育つので、どうぞ保育園の先生にでもなったつもりで期待していてくださいね。
それでは、バイナラ。
エノキダ

2012年1月30日月曜日

ベムとベラとベロとぐりとぐら

創作活動は夜中12時から朝5時までの間が最もはかどる、也田貴彦です。
こんばんはようございます。(朝5時専用の挨拶)

突然ですが僕は
「物書き」という表現が好きです。

小説家、エッセイスト、ライター、脚本家、評論家などなど、
書くことを生業とする人すべてをあろうことかひっくるめて
ぎゅっと圧縮してしまったzipファイルの名前、それが「物書き」。

自営業の人たちを「物売り」とか
教師や講師を「物教え」とか言わないことを考えると
乱暴極まりない表現です。
こんなことが許されているのは「物書き」だけじゃないでしょうか。


何が言いたいかと言うと
ほをずりを書いている人たちは
皆、「物書き」です。

その乱暴な肩書の通り、
ジャンルのこともさることながら、
乱暴にどんなテーマ、物語、主義主張を書いても良いのが「物書き」だと思うのです。
みんな自分たちの好きなこと、書きたいことを、本当に身勝手にぶつけています。
まだまだ卵とはいえそれは正真正銘の「物書き」の姿だと思うのです。
まだ読まれていない人には、ぜひみんなの「物書き」っぷりを体感して
いや~、物を書いてるなあ!
と思っていただきたいのです。

2月号、まもなく刷り上がります。
今回も力作ぞろい!
欲しい方は気軽にコメントください!

2012年1月22日日曜日

ペルシャ・ワルシャワ・ペシャワール (いま思いついた早口言葉)

はじめまして。
小説を寄稿している也田貴彦です。

ほをずり2月号の原稿を今書き上げました!

トースターから飛び出す瞬間の食パンくらいテンションが上がっています。

食パンに塗るならバター派ですが、
食パンとして塗られるならブルーベリージャム派かなと思っています。



さらっと書きましたが、これは性的に深刻な意味を持っています。



ブルーベリージャムを塗られたいという欲求は、どろりとしたあの紫色の猥雑な物質で穢されたいということを意味します。
あの色と形状。
なんともいえない倒錯的、退廃的な美しさをもっているとは思いませんか。

また、ちょっと似た話として、
水着を着た女性が泥まみれになっているグラビアを見ることがたまにありますが、あれが好きか嫌いか。

好きです。

あれも倒錯的、退廃的な美しさの表現方法の一つではあるでしょう。


しかし、ここで矛盾が生じてきます。
僕は食パンに塗るならバター派なのです。

バターは僕のなかではブルーベリージャムよりはかなり清潔感のあるものです。
つまりそれで言うと、僕のなかで対象物を「穢したい」という欲求は、「穢されたい」という欲求よりは強くないはずなのです。

なのに泥まみれのグラビアは好き。
ということはやはり、穢したいのか?

これは自分のなかでも整理の付いていない、美意識や性欲や食欲の醜いつぶしあいなのです。




そんな僕の性的嗜好の話は一切出てこない
「文藝誌ほをずり」、よろしくお願いします。

「ほをずり読んだよ!おもしろかったりおもしろくなかったりしたよ!」
という人や、
「ほをずり読んでいないよ!欲しい!欲しくて3千里くらい歩いてしまいそう!」
という人。
気軽にコメントください。
素敵なことに、1月号も余りまくっていますので。


也田貴彦

2012年1月16日月曜日

タコシェさんに置いてもらいましたよーーーー(エノキダ)

おはこんばんちは! ほをずりではエッセイを書いてますエノキダです。

この週末、中野ブロードウェイに足を運び、3階のタコシェさんに『ほをずり』最新号を置いてもらってきました! わーい!
アマチュアものづくり屋たちの溜まり場・救世主・よんどころ・タコシェ様!
ありがとう! タコシェシェシェ!
ということで、現在のところ、世界で唯一『ほをずり』最新刊を立ち読み出来るお店ですので、お近くにお越しの際はぜひお立ち寄りくださいませ。
値段は210円で置いてもらってます。
よろしくお願いします!! おもしろいお店ですよ。


ちなみに、榎田恵子(えのきだ・けいこ)は本名ではなく、わたしが『ほをずり』創刊にあたって自分に名付けたペンネームです。
3年前に『ほをずり』つくろう! となったとき、
わたしはペンをとり、まずはじめに恋愛話やら初潮の話をそれはもうセキララに書いてしまいました。
そのとき同時に、「ペンネームつくんなきゃ」と、とってもナチュラルに発想しました。

わたしのエッセイは、平均すれば実話7割/つくり話3割ぐらいなものですが、
別れた恋人の発言まるまるも出てきていますので、本名で書くと迷惑かな、というところが大きかったです。
あと、その他もろもろ誰かに指摘されたときに、本名だと逃げ道なくなりそう・・・、という思いもありました。
・・・そのとき、特に気にしていたのは友人の友人ぐらいの距離のひとの視線かな。
んー。あとお母さんと。

ビビりながらつけたペンネーム。
キレイすぎる名前も恥ずかしいし(宮園麗華なんて柄じゃありません)、
ふざけ過ぎも気が散るなぁ(大山ほたては最後まで候補にありました)、
でもなんかなー、「そのTシャツオシャレだね」って言われたときに、「でしょ、でもよく見たらめっちゃ変な生き物おるねん」ってふざけられる逃げ道あったほうがおしゃれを楽しめるところがわたしにはあるんよなぁ、
などなどと考えた挙句、たどり着いた エノキダケ イコです。
漢字で書いたときの字面も良い感じ、四文字の苗字にも「恵」って漢字にも、「○子」って名前にも憧れていたので、とってもお気に入りのペンネームです。

そして今、「榎田恵子」の署名の練習するのがすっごい楽しいです!
ペンネームつけて署名の練習、コレ、おすすめです!
好きなお味噌汁の具はわかめ&エノキダケです!

2012年1月5日木曜日

文芸誌『ほをずり』の公式ブログを開設しました。

はじめまして。
文芸誌『ほをずり』の公式ブログです。
ここでは、最新号の告知や寄稿者の紹介などを行います。
定期的に更新していきますので、よろしくお願いします。

『ほをずり』はかれこれ3年ほど前に、大学の仲間たちと創刊した文芸誌です。今までに2号発行してきました。
そして、この2012年1月に、第3号目を発行いたしました!!

ラインナップは次のようになっています。
エッセイ 「漂白日和」「キャンディ・ベリーマッチ」etc 榎田恵子
短歌 「勃起短歌」BJ番匠
評論 「愛について」網谷壮介
創作 「仕事人間」「濃縮昔話」「解説 常用漢字読みの改定」也田貴彦
あとがき 「もうボーイズアンドガールズではない私たちから」榎田恵子
表紙 神谷悠貴

私たちの紹介も兼ねて、あとがきの冒頭を引用してみようと思います。


レディース・エンド・ジェントルメン、ごきげんよう!
私たちの『ほをずり』を読んでくれて、ありがとう!
この『ほをずり』は、縁あって京都と大阪で出会った何の色気もない男女たちが、お互いの気概と才能を褒め合いながら、ときに貶し合いながら作っています。
第一冊目の『ほをずり』を作ったのが、三年前。友人同士で「何かせんといかん」「爪あと残そうぜ」と盛り上がった、大学生時代。
あれは青春だったか?
青春はいつも、振り返ってからキラメきます。失ってからが、勝負です。

勢いだけで、とにかくしばらくやってみるつもりです・・・!!